今までに無い電話占い
その時の様子を、歌右衛門がこう記憶している。
「横合いからチョコチョコと駆け寄ってきて、パッと写真におさまっているのがあなた、まだ若手のころのグレース・ケリーさんなのよ」。
グレース・ケリーはモナコ王子と一九五六年に結婚しているため、この時には映画界を引退した後で、歌右衛門の記憶違いだ。
しかし『女形六世中村歌右衛門』に掲載されている、その写異にはグレース・ケリーらしき女性が写っている。
二〇年ほど経った一九八一年、モナコ王妃となって来日したグレース・ケリーは、国立劇場の楽屋に歌右衛門を訪ねた。
その時の様子を『デイリースポーツ』一九八一年四月一三日号は、次のように報じている。
「劇場に到着された王妃は、歌右衛門の楽屋を訪問され、舞台メーキャップや豪華な衣装の着付けをご覧になった。
王妃は、来日に備えて正座を練習をされたといい、楽屋でも用意されたイスを降りて畳の上にきちんと正座され、主人公の役柄などについても熱心に質問された。
」歌右衛門の魅力が王妃を正座させる力を持っていたのかもしれないが、〓云に秀でた人を訪問する態度としてグレース・ケリーがとった行為は人の道として当然のことである。
しかし当たり前が故に、この時のグレース・ケリーの行ないはより高貴であった。
その反対もある。
一九七〇年にあるヨーロッパの皇太子が京都に寄ったときのことだ。
舞妓だった岩崎峰子の扇子を取り、勝手に自分の名前をサインしてしまった。
「一瞬、私は『いや、かなん!』と思いました。
私のお気に入りの扇子です。
それを、こちらの意向を聞くことなく、いきなりサインをして、返してよこされたのです。
そうすれば、私が喜ぶと思われたのでしょうか。
いくら高貴なお方とはいえ、それではあまりにも失礼ではないかと、私は率直に思いました。
私にしたら、大切な扇子に落書きをされたような気分でした。
」彼女が皇太子に、サインが入ったものは他の客に失礼なので、「たいへん光栄に存じますが、それ(扇子)はどうぞお持ち帰りください」と言ったところ、「自分のサインがいらないのか」と聞き、はっきり「いりません」と答える舞妓に驚き、「自分のサインをいらないと言われたのは、はじめてです」と言ったという。
一九七五年、皇太子の母である女王が京都を訪問し、料亭に寄ったときも岩崎峰子がその席に呼ばれることになった。
京都の代表的な料亭に用意させたのは、フランスの王室でもないのに、「フランス料理のフルセッティングで、純金のナイフ、純金のフォーク、純金のお箸」だった。
峰子が「箸をつけられないのですか」と気遣っても返事はなく、女王は出されたフランス料理にいっさい手をつけようとしなかった。
すでに襟替えをし、舞妓から芸妓になっていた峰子はこう思ったという。
「当日、召しあがるものは、お料理屋さんのほうで勝手に決めるわけではなく、あらかじめ向こうから指示されるのです。
万に一つも粗相があってはいけませんから、材料をそろえるのだって並大抵のことではないはずです。
それを注文し、つくらせておいて、見向きもしないでは、あまりにも人の心をないがしろにした所行というはかありません。
」自らの文化をベストであると思うことは誰でもあることだが、誰もがそう思っているからこそ、互いに認め合わなければならない。
それぞれの人たちが愛し、守ってきた文化に順位も優劣もない。
自らの文化の優位性への過信と、文化の多様性を認めようとしない偏狭さを、日本の伝統文化の守護神である芸妓は感じ取ったのであった。
一九六〇年の戦後初の歌舞伎海外公演に同行していたドナルド・リチイが、『垂術新潮』に公演の成功を伝えている。
その中に、こういう箇所がある。
「ガルボはカブキを見にきて、たちまち、歌右衛門に激しい恋をよせはじめた。
ガルボは『道成寺』を見たあとで、『これまでに味わったことのないもっともすばらしい観劇体験』と感動を語った。
」ガルボとは言うまでもなく女優グレタ・ガルボである。
一九四一年に銀幕から引退して、一切公には姿を見せなかったため、生きたまま伝説になっていた。
二十世紀を代表する女形、六世中村歌右衛門とニューヨークで出会うことになったのである。
この記事によると、歌右衛門に恋してしまったガルボは歌右衛門を楽屋に訪ね、着替えているところを見たいと望んだが、汗だらけの姿を見せるのを蹄躇した歌右衛門は断りの理由を伝えさせた。
するとガルボは「彼の汗が見たい」と言い出したため、歌右衛門は化粧をととのえ、新たな出し物のために、楽屋から出てくると、ガルボは舞台の袖まで付いていった。
舞台の下手で脆いて出番を待っていると、拍子木が鳴りわたった。
記事はこう続く。
「ガルボは舞台にはしりより、背後から歌右衛門の肩に手をかけた。
歌右衛門がはっとふりかえった時、ガルボは激しく歌右衛門を抱きしめ、体をゆすった」歌右衛門四三歳、ガルボ五四歳であった。
閲容子著『歌右衛門合せ鏡』を見ていたと、後に歌右衛門は回想している。
ガルボのラブレターニューヨークでの公演が終わり、いよいよ歌右衛門がニューヨークを去るというとき、ガルボから、ロサンゼルスのグリーク・シアター気付で歌右衛門宛てに電報が届いた。
その現物は、早稲田大学の演劇博物館に所蔵されており、写真であれば、『女形六世中村歌右衛門』に見ることができる。
宛先が「MR.UTAEMON」となっている電報の文面はこうだった。
差出人は「BOWERSANDGARBO」となっていている。
なぜ、パワーズと連名になったのかについては、歌右衛門自身はこう説明している。
「私がニューヨークから帰るというときに、『LOVELOVELOVE』という電報をくださったの。
だけど、面白いのは、その電報、私の名前宛じゃなかったの。
まずパワーズさんのところに届いて、そこから私のところにきた。
電報と一緒に、卵の形をしたピンクの水晶の置き物が届きました。
」一人では直接出すのをためらったガルボが、フォービアン・パワーズから転送してもらったのであろう。
内田吐夢が中村錦之助に惹かれたように、修行によって伝統を継承した美に、ガルボも、グレース・ケリーも惹きつけられたのであった。
「まなぷ」は「まねる」模倣によって欲望の平準化と均一化に最も成功してきたのが、実は日本であった。
海外からも、常に真似るのに長けた国であると言われ続けてきた。
『ペリー艦隊日本遠征記VOL.1』は「日本人は外国から持ち込まれた目新しいものを素早く調べて、その製造技術をすぐに自分のものとし、非常に巧みに、また精緻に同じものを作り出す。
」かを学ぶためには模倣から始めなければならないと考えられていた。
「模」範といった言葉どおり、いいものは真似なければいけないし、「形から入る」という芸能の伝統も、模倣の価値を積極的に認めてきた証左といっていいだろう。
これは日本に限ったことではなく、アリストテレスは『詩学』で、詩(芸術)を「模倣の技術」と呼んでいる。
古来から、優れたものが必ず海の向こうにあり、それをなんとか日本に持ち込み、平和な日本という培養器で醸成させてきた。
日本は常に海外に学ぼうと努力してきた。
一八七三まねするという国民性」を挙げている。
海外の文物を知りたい、海外から学ぼうという姿勢は身に付いたもので、こういった知的好奇心は上流階級だけでなく平民にも同じようにあり、ペリーの遠征記には次のような記述がある。
電話占いからはシャープな印象を受けました。電話占いキャンペーンを実施中です。
電話占いだけあれば充分だと感じました。本格仕様の電話占いです。
自分磨きに電話占いのご相談お答えいたします、電話占いネットで検索!